コラム

鳥山明先生とドンキホーテの思い出

漫画家鳥山明先生が亡くなられた報道にショックを隠せないドンキホーテ谷村ひとしです。
鳥山先生に描いてもらった色紙です。

1978年、27歳で週刊少年ジャンプの新人賞に引っ掛かって、担当の編集の方がDr.マシリトのモデルの鳥嶋記者さんになった谷村ひとしですが、当時鳥嶋さんが抱えていた作家さんは3人いらして、ボクと“ウィングマン”や“電影少女”の桂正和先生が、まだ高校生で、名古屋の広告代理店でイラストの仕事をしていた鳥山明先生の3人でした。

ボク以外のお2人は、言わずとしれた大ヒット作を生んで集英社を成長させた大物作家になったのはみなさんよくご存知のことと思います。

空手バカ一代の影丸穣也先生のアシスタントを9年間もやって、27歳のロートル新人で2歳年下の鳥山先生や、10歳も歳下の桂先生に混じって、ヒット作を描けないお荷物だったドンキホーテですが、鳥嶋記者は面倒見が良くて、ボクたちを連れて打ち合わせは喫茶店へ、夕食をおごってくれることも多く、お金のなかったボクたち漫画家のタマゴにとって、厳しい親戚のお兄さん的存在でした。

鳥山先生は純朴なペンギン村の住人という感じで、2人で晩御飯に連れて行かれたロシア料理の“ボルシチ”は、当時1978年に人生で初めて知る料理だったのです。
大きなじゃがいもをうまくつまめずテーブルに転がしてしまって、慌てて拾って器に戻す鳥山先生とドンキホーテでした。

田舎から出てきた恥ずかしい若者2人だったことを今でも鮮明に思い出します。

外国の料理店なんて、“東京って凄いなぁ”と2人で、ボルシチの味もわからないくらい舞い上がっていたのでした。

神田神保町の集英社と安アパートの往復をくり返してデビューしたドンキホーテですが、鳥山先生は名古屋にいらして、打ち合わせも大変だったようです。
いまのようにメールやネットのやり取りではなく、FAXでコピーのやり取りをしていた1970年代です。

広告のイラストを名古屋で描いていた鳥山先生の絵は、アメコミの影響も上手くセンスがズバ抜けていて、“上手いなぁ!!”というのが第一印象で、当時、厳しい鳥嶋記者が8頭身のアラレちゃんを2頭身に縮めるようにアドバイスしていたのをめちゃくちゃ覚えています。

横長のマンガのコマを自由自在に飛び回る元気なアラレちゃんは小さく描かなきゃとどんどん縮んでいくのが少年誌のメソッドの重要なポイントだと教わった気がします。

空手バカ一代の劇画を9年間教えこまれていた“谷村ひとし改造計画”は、当時人気の成田美名子先生などの少女マンガの優しい絵に変えることを鳥嶋記者に叩き込まれていたドンキホーテです。

めでたく1980年31号(8月4日号)、当時170円で、秋本治先生の両さんが表紙のジャンプで、“ショーアップハイスクール”でデビュー出来たドンキホーテです。
もうすでに、鳥山先生はジャンプ連載陣の柱としてDr.スランプアラレちゃんをヒットさせていました。

このDr.スランプの“柱”と言われる枠外に“★パチンコ経験ゼロ!の名古屋っ子、鳥山明先生に応援のお便りを!!”と書かれています。
ホントに派手なことやギャンブルには縁のない、ペンギン村の住人の鳥山明先生の素顔が垣間見える文章です。

この頃、ボクとカミさんが結婚するのですが、お金が無くて、結婚指輪のお金を鳥嶋記者にお借りしたドンキホーテ、もちろん結婚式も挙げていません。
お祝いに鳥山先生が描いてくださったのが最初にお見せした色紙で、我が家のお宝として43年間飾っています。

無限のアイデアとキャラクターを生み続けてきた鳥山先生が亡くなったなんて、今でも信じられません。
ドラゴンボールやDr.スランプが全世界に広まって愛されているのは納得出来る鳥山先生の人柄そのもので、一緒に週刊少年ジャンプで育った者として、先生の作品は永遠に生き続けて、より多くの人々の心に刻まれていくことと思います。
先生は今もペンギン村で少年のように目を輝かせ、笑顔で過ごしていらっしゃることと思います。

ご冥福を心からお祈りします。合掌

P.S. きのう大勝ちしたので今日は実戦なしです。

▼2024年3月トータル収支
+13万500円

▼2024年トータル収支(※3月8日現在)
+100万3500円

▼総トータル収支
1994年3月31日~2024年3月8日
+9833万8240円

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